旅行。

昨日は

山梨の中山湖に行ってきました。とても、きれいなところでした。その時おもったことですが、山中湖も少しずつ軽井沢のような街並みにもなっているような気がしました。しかし、古来からの、中山湖の良さを維持できなければ、世界遺産に登録されなかったとおもいます。しかし、あそこは結構会社の保養所や、大学の場所がいろいろとありました。その後何だかサレジオの修道院がありました。いつの間にかできたのだろうと思いましたが、むろん最初は大手の企業の保養所でありましたので、やはり、最初はそのような人たちが使っているから、上手に発展していったのかと思いました。

 

歴史を見ても、そうです。最初は皆、武士以上の人たちだけがやっていたものですが、それだから発展していったのかと思います。密教もそうです。平安時代は、貴族が密教のものを持っていました。だから、今、密教という形が証明されていると思います。でなければ、形には残りません。やはり、心だけでなく、お金も大切ということです。それをどのような心でするかであって、それは人それぞれのことですので、人がそれに対して、とやかく言うことがおかしいと思います。今の風潮として、特に、それがうるさい。何だか密教の取違でそれを言い訳として、自分のすきなことをしているとしかありません。

 

いずれバチがあたると思います。真言の空海の時も、多くの天変地異があったそうです。それだけ、密教は怖いということですが、今の人たちのせいでまた同じことが起こるのではないかと思います。天災、地震、飢饉などです。現に震災は起こってますし、東北だけでなく、関西もそうでした。こんな大きな地震が数年であっていいのでしょうか?本来なら、100年に一回とかだったと、歴史をみても、わかります。

 

このままでは、恐竜が滅びた時と同じように、なってしまうのではないでしょうか?

 

河口湖でも、水が引いています。きっと何かの前触れか、もしくは、富士山が怒っているのではないでしょうか?大自然の警告でもあり(憤慨も含め)、人間は気を付けなければいけないと思いました。

 

多くの人が歴史を築き上げてきたものを、自分勝手の都合によって、壊していっていいのかと思いました。次の世代の子供たちは仕方なくてたまりません。だって、始まったのは、18年前です。その時にかたずけられなかったのは、その時の人たちだったのですから、そしたら、自然にどうして僕を生んだの?という考えになっても仕方ありません。だって、なんで知らない人から、エイズなんて言われないといけないのか、生まれ持ってきた形状容姿にまでも言われて、やりようがありません。ここでは、密教では、ナーディという言葉になりますが、いい加減にしろですよね。それをも放置しておいて、だれが戦うの?です。

 

 

最近また。(密教において)

最近

また良くない状況に陥るような気がします。というよりも、また密教もどきが始まっているようですので、また同じことをくりかえさないように、そして、以前できなかったことを今できるようにするしかありません。

 

そうすれば、自分の燻蒸は少なからず変わっていきます。なぜならば、知らなくて耐えていたのですから、本当のことを知っていたら、できたはずです。少しずつ直していきながら、かつてできなかったことを少しずつしていけば、自分がつぶれることもありません。確かに遅いですが、それは今の自分の業です。要は自分が遅いからです。それを理解できるなら、それを認めつつ、やっていかないと、更に、自分を正しいことをしていても、壊れて当然です。まあそこで、自分の心の状態をわかることが必要です。

 

それを理解しないと無理です。まあ勉強と同じです。結果はいつかなと焦りますが、まあ18年間とういう長い月日がありますので、数字では18年ですが、どれだけの

重さかはわかりません。しかし自分に戻るまでは、やり続けないと。当然不安も、出てきますが、それだけ、重さはあります。お化けでいうならば、祟りと同じです。

 

それをどうしていくか、詳しくはわかりませんが、それと同じです。家系をしらべてみるとわかります。因縁や、因果応報です。それはいつかえってくるかはわかりませんが、それとおなじです。

 

毒をもって毒を制す。とあります。密教は目に見えないものです。しかしそこには、人間の意志が働いているのは事実です。要は無意識です。結局はだれが、やっているかですので、その人がやっているためにそう結果が編み出されます。よって相手がそうしているのなら、自分も結果を探すなら、わかるはずです。確かに、人のせいにしているようですが、密教においては、事実のことです。ここがまた理解することが

難しいかもしれませんが、また心の声と口での話すことが違います。それを口で話すということはまちがっていることもあります。何をどう話すか、またどうとらえるかですので、本来は性格になります。また考え方もありますので、議論が出ても当然です。

 

自己愛着と完結に行ってしまえばおしまいですが、自分に戻るにはその自分も認めないと無理です。それから、本当の自分の成長です。本来の自分で成長しないと、おかしくなります。要は西洋文化みたいになりかねません。または虚無論、邪道に陥ることになります。

みかけは、神道ですが、それは、違います。頭の中は全くと言っていいほど、西洋文化です。

勝義があれば、世俗があります。それが、ヒントであり、答です。それしかありません。

密教2

今日は

ヴァジラについてです。本当の心の強さのことです。何が正しいか学び、大乗の思いやりです。方便と知恵に基づいて、何が正しくて、何が間違っているというような、すべてを観念というような考えではヴァジラとはいえません。

タントラとはさらに高度です。煩悩をすべて肯定するというような安易なものではありません。その人の向き不向きがあります。性格と同じように、その人の体の状態例えば、ラジャス、サットバ、タマスとあるようにそれぞれの体質があります。よって、その人のナーディの突っかかりがあるように、さまざまなテゥモの状態があります。

 

其れさえもわからずに、ヴァジラでやるということは理解できません。完結に言うと、強い心です。正義感などもですが、薄情ともちがいます。

 

  • 無上瑜伽タントラの特徴は、瑜伽タントラ以上に内面の瑜伽を重視し、外面の所作にはほとんどこだわらない点です。内面の瑜伽とは、本尊と行者との一体にほかなりませんが、それを速疾に達成するため、生起・究竟の二次第がもうけられています。

 

  • 安易な性瑜伽の実践は邪見と表裏一体であるというよく考えるべきです。観想による修行ならば、そうした邪見によって罪障を積み重ねる危険も少ないので、通常はこれによることが勧められるのです。

 

密教

今日は

高野山に行ってきました。真言宗ということをわからずに行ってきました。

大変面白かったです。やはり人は退化していっているのかなと思いました。

というのも、帰りは山を下りましたが、さすがにつらかったです。本当に自分の

体力も落ちているなと思いましたが、それよりもどうしてもっと早く動けなかったのかなと思っていますが、自分の人生を有意義にすごせますようにと願をかけてきました。

 

というよりもそのような場所があったので、お参りしてきました。なんだかんだやってきても、結局自分のことになるとこれでいいのかな?、自分の人生をかけて、でも

物や形に残るものはなにもないと思うとこれでいいのかな思っていた矢先のことでした。仏教の教えには、苦いことは同じことをしてはいけない。逃げるべきと経典に書いてあります。そのようにしていても、後悔や自問自答の時、不安に駆られる時があります。要は心だけでもいけないということです。

これは形にして、更に関係がつながるということです。外国では形として物を送ることがないので、口ばかり、その関係で信頼関係など起こることは不可能だと思います。人間をそこまで信じられるのでしょうか?だから、西洋はキリスト教なのですが、。しかし、人に裏切られた、さまざまな問題があります。だから、同性愛や、殺人が多いです。やはりこれは、礼儀として、外国ではマナーというべきでしょうか。

それを行うことにより、少しは穏便に済むのではないでしょうか?以前どうして、物をかわすことがあるのという外国人がいましたが、その日本人はそれを言ってましたが、何だか外国人のほうに同意している傾向が強かった気がします。

 

だからではないですが、だからうまくいくということもあります。それは、やはり立場でしょうか?やはり、立場ある外国人でしたら、少しは理解できると思います。

要は感謝が足りないから理解できないし、それを当たり前と考えているという感じがします。それはその人の悟りだから仕方ないといっても仕方ありませんが、ちょっとなさすぎです。楽しければいいというものでもありません。それはその人の人生の歩みの時間でしょうか?その立場になって初めてわかることかもしれませんが、あまりにも、関与しすぎではないでしょうか?プライベートか、仕事かわかりません。

 

これでは礼儀って何と言わざるを得ません。よりこんなんで密教などやったら、もっとひどくなります。きっともっとわからなくなるでしょう?ましては、虚無論におちいることでしょう。だから悩みも多く、うつになったりする人が多くなります。

 

あまり無駄なことは考えないほうがいいと思うけど。本当に必要なことを考える時が来ると思いますが、それも人それぞれ?でも密教によって苦しんでいる人はいると思います。自我とか風評などで、。よくわかりません。

 

本来の密教とは、自分とのたたかいです

  • 自分の無意識、超無意識が現れた時どのように対処していくかだけのことです。だから、自分ってどうしてできないのだろう?

とか自分の癖ってなおらないんだよねという悩みに陥るのです。

 

自分の無意識は怖いですよ。まるでお化けの祟りみたいなものです。恨みってそう簡単には解決いかないと思います。それを平気でやっているのですから、信じられない。あまり関わりたくないです。自分が今度は振り回されるから。どんなに業が良くても、必ず振り回されます。これは私も経験したことです。友達の感情によって事故にあうこともあります。ちょっと別の友達と外で話しただけで、気分を悪くし、車に乗ったら、事故にすぐに会いました。また、親にあの人と会うと疲れて帰ってくる、ぐったりして生気がないから会うなと言われたのですが、一人暮らしで話す人もいなくかわいそうだからということで、あっていたら、まんまとやられました。人生の反対が起こりました。別にどこの宗教とは言いませんが、一風を整備したところです。

 

なんだか密教をやっていたらしく、人生が反対になってしまいました。修行とは何て言いながら、自分の闘争、嫉妬を肯定していたところです。よって結果はすごい。まあ、人間の修羅場ですね。なんのための修業か?と問いたくなります。見栄?

 

だから、必ず禅をしたほうがいいですよ密教を行ったら。私はそう思いましたが、すでに遅く、それさえもできないように振り回すことができる状態でしたので、禅でも、瞑想でも

ふっと、そんなことありませんか?気を付けましょうね。まず自分です。自分を理解

しないと、わからないことだらけです。間違ったことを肯定しているのですから、戻す苦しみは図りしれないことです。でも自分できずかなかったのですから、仕方ありません。人はそれぞれですから。それも自分でしょうか?

 

 

密教について

またまた

です。今日はまた、煩悩についてです。仏教の中で煩悩を落とす。とあります。これは、煩悩を超えると思いますが、キリスト教では、煩悩がなくなれば、こじきでも平気である。と聞いたことがあります。これは大変間違っていることです。間違った三身です。というのも、煩悩がナーディにかわったり、確実に間違っています。要は空もありますが、それそさえも体でやってしまうということです。

 

まったくと言って信じられません。人それぞれの受け取り方があるように、それが修行であり、考えることであります。それを議論を嫌悪などと言ってみたり、それこそ、生活ができなくなります。ではなぜ口があるのでしょうか?それはしゃべるためであり、お互いを理解する手段でもあります。その口があるのに、見えないところで話したりしているということは、まったくといってナンセンスです。実生活の中で、言えないことがあり、悩んだりしながら、成長していくのが人ではありませんか?

 

それを無視して、何を考えているのか。これは根本無知です。あまり、自分ということに考えたことがないのか、人生など、その他もろもろですが、楽しければいいという感じなのでしょう。だからどのように考えていいのかわからないのでしょう。でもそれではあまりにも無知すぎです。少しは教養たる本を読まないと。

 

その点昔の日本人のほうが生活の知恵があり、無駄がありません。尊敬せざるを得ません。と私は思います。よって今の日本があるのですから。感謝を忘れたら、バチがあたります。私の経験上その点、尊敬や感謝をしている人が、大方お金持ちや、高学歴のような気がします。中にはまれにいますが、そう簡単には人間ができている人に巡り合うことは難しいかなと思いました。

 

結局愚痴も大切だということです。案外身近なところで道は見つかるかも。あとは人かな。lこれは、仏教でいうと縁起や縁。だと思います。

密教の結果

正しい

密教を行わないといろいろな結果がすぐにでも帰ってきます。今の自分を知ることが一番の先決であり、結局は自分の心の発見をすることです。そのためにテゥモがあり、アーラヤ識、マナ識の自分の見えない意識であります。時代によっては、セックス、または精液を飲んだりといろいろありますが、これは出家修行者が、結婚をしないでいるということで、戒律ではしてはいけない結婚をタントラとして、結婚をして修行していくということであります。

 

日本でも、4つのタントラの修業がありますが、見つめるだけとか、手を握ることなど、修行があります。確かに、人生を振り返ると、いろいろとあります。それをクリアすることにより、自分を律することもでき、(確かにねてしまうこともありますが)いずれ、理想の女性、男性と結婚することができ、煩悩を肯定し、そして、高めあっていくことになります。要は、成就、仏や仏陀になるということです。これは日本のしつけの中にありますので、邪淫をするとなぜいけないか、それはいずれ理想の人に出会えなくなる可能性が多くなるということです。また性欲にとらわれ、落ちるかどうなるかもまたその人しだいです。かつて夜の仕事をしていた人から聞いたことがありますが、飲み屋のトイレですぐにセックスしてしまう人が多いと聞きました。が、その人もあまり女性はこうだと思っているところがあり、あまりよく思ってないようでした。ですから、自分はしていなくても、自分の考えで固執してしまい、いい人に出会えても気が付かないで終わってしまうようです。そして、人間関係もせまばり、結局は自分で、自分を苦しめているような気がしました。

 

よって、無理をしてまで、そんな人と付き合う必要はないと思います。だって性格も合わないのに、なぜ無理をしてまで、付き合わないといけないのか、まあそのような人は付き合いたいと思うかもしれませんが、こちらも人を選ばないと自分の人生を壊すことにもなりません。影響はすごいありますよ。それで私も何度か2回かな振り回されましたので。親にも生気がなくなって帰ってくるといわれ、付き合わないほうがいいと注意をされたこともあります。

 

 

まあキリスト教の隣人愛は無理でしょうね。自分を苦しめるだけではないでしょうか?また煩悩をナーディ変えてしまったり、上半身の霊体が足にきていたり、注意深く見ているとわかります。気が重くなるとは違います。よって足を組むことを勧めます。けっふざ、胡坐を組むような感じで、足を両方のモモにのせます。気があがりますよ。気が上がり、元に戻ります。あまりにも、気が下がりすぎると、血管が浮いてきたりする病気になったり、むくみ、など、症状がさまざまです。これは意図的にも、気を下げられることもできるので、できれば、修行をされた後、ナーディ、テゥモの後は足を組み、座禅をすることを勧めます。けじめみたいなものもあるので。

 

帯状疱疹って密教より

密教では

霊性の修業の一つです。というのもこれも難しい日本語になりますが、密教の本を読むと「毒をもって毒を制す。」です。霊性で自分が言っているのに、それを抑えたり、また口で言うことを抑えられたりすると、完全な神道であれば、霊性での修行が病気になります。結局神経という言葉を使うと、その神経がおかしくなり体に異変が起こります。その時は自分の感情に従っていくことが必要です。

 

もし抑えられたりしたら、それは致し方ないですが、できるだけ、その感情をあらわにしたほうがいいとおもいます。積もると、帯状疱疹伽あらわれたりします。これは霊性でのイライラであります。自分の意識における言葉ですから、自分の言葉で、自分の感情で言っていることをつなぐことが大切です。口で、体で、意識で、との三身がありますので、それがおかしくなると、キリスト教みたいになり、いずれキリスト教になります。

 

それが自分なのですから、それを受け入れる必要があります。よって座禅、または瞑想が必要となります。なぜならば、それは自分の精神統一みたいなものです。要は、武道と同じであります。自分の心を壊すということは、必ず体に現れ、よって同性愛にもなりかねません。

 

新道であれば、仏教の言葉を使えば、正起次第といい、ナーディやテゥモを起こすことは、究竟次第といいます。これが密教の教えであります。本に書いてあるのですから、別に悪いことでもなく、よく口で話すとよくないとか言われますが、それは間違っています。なぜならば、本が出ているのですから。そして、それをどうするかは、もちろん、座禅であります。要は新道は正しいということです。

 

それが間違えるといろいろとありますが、まず最初にすべて究竟次第であれば、それは、エイズや、キリスト教であります。ナーディやテゥモだけで、生起次第を完成させることはできません。それはおかしいことです。なぜなら、相手が正しいですが、霊性でそれを理解できることは、少し病的なことであり、同性愛に近いことです。同性愛はそういう意味で霊性(先がわかる。早いということかな)でありますので、霊性が早くに高くてもそれは、一旦落ち着いて、精神統一や、瞑想、座禅をしたほうがいいと思います。これは、阿頼耶識での徳を使っているか、もしくは、間違った三身であります。これも、キリスト教になります。

 

故に、落ち着いて、生活することの大切さをしみじみに感じます。ですから、密教で自分のいやなことをして、業が悪くなるより、避けて通ったほうが、自分の業が悪くならず、自分のためにもいいと思います。あとで人をけなすより、自分で選択するべきです。そうしたら、恨むこともありません。また、本来なら、光によってではありませんが、仏の魂や菩薩の魂があります。何故かそのような人にいやなことをして、業を悪くするならば、自分の人生も悪くなります。

 

今まで、密教が流行ってなかったとき、いい人にはみなさんいいことをしていたし、私には関係ないとおもっていたはずです。それはいいことをすれば、いいことが帰ってくることであり、関係ないもエゴではないと思います。だってそれは現実ではその本人にはまだあってない人なんですから。