密教

今日は

高野山に行ってきました。真言宗ということをわからずに行ってきました。

大変面白かったです。やはり人は退化していっているのかなと思いました。

というのも、帰りは山を下りましたが、さすがにつらかったです。本当に自分の

体力も落ちているなと思いましたが、それよりもどうしてもっと早く動けなかったのかなと思っていますが、自分の人生を有意義にすごせますようにと願をかけてきました。

 

というよりもそのような場所があったので、お参りしてきました。なんだかんだやってきても、結局自分のことになるとこれでいいのかな?、自分の人生をかけて、でも

物や形に残るものはなにもないと思うとこれでいいのかな思っていた矢先のことでした。仏教の教えには、苦いことは同じことをしてはいけない。逃げるべきと経典に書いてあります。そのようにしていても、後悔や自問自答の時、不安に駆られる時があります。要は心だけでもいけないということです。

これは形にして、更に関係がつながるということです。外国では形として物を送ることがないので、口ばかり、その関係で信頼関係など起こることは不可能だと思います。人間をそこまで信じられるのでしょうか?だから、西洋はキリスト教なのですが、。しかし、人に裏切られた、さまざまな問題があります。だから、同性愛や、殺人が多いです。やはりこれは、礼儀として、外国ではマナーというべきでしょうか。

それを行うことにより、少しは穏便に済むのではないでしょうか?以前どうして、物をかわすことがあるのという外国人がいましたが、その日本人はそれを言ってましたが、何だか外国人のほうに同意している傾向が強かった気がします。

 

だからではないですが、だからうまくいくということもあります。それは、やはり立場でしょうか?やはり、立場ある外国人でしたら、少しは理解できると思います。

要は感謝が足りないから理解できないし、それを当たり前と考えているという感じがします。それはその人の悟りだから仕方ないといっても仕方ありませんが、ちょっとなさすぎです。楽しければいいというものでもありません。それはその人の人生の歩みの時間でしょうか?その立場になって初めてわかることかもしれませんが、あまりにも、関与しすぎではないでしょうか?プライベートか、仕事かわかりません。

 

これでは礼儀って何と言わざるを得ません。よりこんなんで密教などやったら、もっとひどくなります。きっともっとわからなくなるでしょう?ましては、虚無論におちいることでしょう。だから悩みも多く、うつになったりする人が多くなります。

 

あまり無駄なことは考えないほうがいいと思うけど。本当に必要なことを考える時が来ると思いますが、それも人それぞれ?でも密教によって苦しんでいる人はいると思います。自我とか風評などで、。よくわかりません。

 

本来の密教とは、自分とのたたかいです

  • 自分の無意識、超無意識が現れた時どのように対処していくかだけのことです。だから、自分ってどうしてできないのだろう?

とか自分の癖ってなおらないんだよねという悩みに陥るのです。

 

自分の無意識は怖いですよ。まるでお化けの祟りみたいなものです。恨みってそう簡単には解決いかないと思います。それを平気でやっているのですから、信じられない。あまり関わりたくないです。自分が今度は振り回されるから。どんなに業が良くても、必ず振り回されます。これは私も経験したことです。友達の感情によって事故にあうこともあります。ちょっと別の友達と外で話しただけで、気分を悪くし、車に乗ったら、事故にすぐに会いました。また、親にあの人と会うと疲れて帰ってくる、ぐったりして生気がないから会うなと言われたのですが、一人暮らしで話す人もいなくかわいそうだからということで、あっていたら、まんまとやられました。人生の反対が起こりました。別にどこの宗教とは言いませんが、一風を整備したところです。

 

なんだか密教をやっていたらしく、人生が反対になってしまいました。修行とは何て言いながら、自分の闘争、嫉妬を肯定していたところです。よって結果はすごい。まあ、人間の修羅場ですね。なんのための修業か?と問いたくなります。見栄?

 

だから、必ず禅をしたほうがいいですよ密教を行ったら。私はそう思いましたが、すでに遅く、それさえもできないように振り回すことができる状態でしたので、禅でも、瞑想でも

ふっと、そんなことありませんか?気を付けましょうね。まず自分です。自分を理解

しないと、わからないことだらけです。間違ったことを肯定しているのですから、戻す苦しみは図りしれないことです。でも自分できずかなかったのですから、仕方ありません。人はそれぞれですから。それも自分でしょうか?