今日は体の事。

今までは霊性の事を話してきましたが、今日は体の事をはなしたいと思います。思いだすことは、まず最初に、目です。五感に合わせるとすべて、当たりますが、目から言っていきたいと思います。

 

目:まず最初に、しぶしぶ。大体これは、流されているので、誰かが、密教をやっているからです。それで、感知している状態なので、自分の疲れ目ではありません。しかし、その状態を放置しておくと、病気になりますので、目薬を勧めます。物もらいのような状態も目薬で直ることもありますが、不安だったら、病院に行ってきた方がいいと思います。極度の痛みを伴う事もありますが、それも大丈夫だと思います。でも不安だったらです。

 

手:ぴくっと動くときもあります。それは神経だと思いますが、それも、相手の癇癪で動いてしまいますので、あまり、それを否定しないほうがいいと思います。無理して止めるという感じかな、しかし、その癇癪の相手を、見つけ、喧嘩しないと、一生ついて回り、老後は神経症で扱われるか、もしくは、頭の病気や心臓の病気から発症するしびれを見抜くことはできませんので、早くに、逆縁にしていたほうがいいと思います。神経びりびりの時は、体操を勧めます。ツボをしなど。

 

頭:新道の教えでいうと、真理とかけ離れているからだといいます。要は、密教は目に見えないものであります。自性も無自性も空であるという事です。時々、誰かが、自性が空と言ってますが、それはニヒリズムです。結局、それを理解していない人が挙げてくるので、おかしくなるという事もあります。しかし、相手はそれを理解していても、その人が理解してなければ、おかしくさせます。挙げてこられた人がおかしくなるだけで、その張本人は全くの自然で悟ることにもなります。事故もそうです。だから、悪運の強い人が生き残凝ることもあり、今の状態では、・・・。

 結局、どんな状態で言うかどうかにより、そして、だれが言うかにより、すべてが変わります。よって、うまくコミュニケーションが取れず、その人が脳梗塞、脳疾患、心疾患などの病気に導かれることになります。すべてはストレスから生じることですので、今の世の中の状態から言いますと、仕事と霊性の両方のストレスを発散させないといずれ、体と精神の限界が来た時、人は病気という形で、現れますので、常日頃、気を付けてないと、。しかし、散歩だけではよくありません。要は、頭にジリジリなど、別の感情が入ってきたとき、にそれに合わせると、自分も壊れます。ので、その時は自分のペースで、しかし、確かに、新道は壊れるかもしれません。が、ナーディが。仕方ありません。少しずつ回避ですね。相手の癇癪を受けているので、本来なら、縁がありません。だってせっかちですから、要は、。現実で人の話を聞けないという事です。それを肯定しているのですから、仕方ありません。相手は逆縁なのですから、それを新道などと肯定しているわけですから、では、あなたは新道の修業をしているのと問いかけるべきです。今の状態では何が新道かわからず、正しいことも間違っていることもわかりません。すべては自分ですか?ですから、自性も無自性も空という事です。簡潔に言うと、世俗諦と勝義諦という2諦という事です。この脳からどう神経が流れ、手が勝手に動く、などまたありますが、(口も)、

仕方ありませんですね。これっばかりは、。しかし、ある程度座禅をすれば、ふぜげます。要は相手の念を断ち切ればいいのですから、まだ、わからないうちが花です。が、かっこいい人は気を付けたほうが、何処で、狙われるかわかりません。可愛い人もです。可愛くて嫉妬されることもありますので、。こればっかりは。座禅の後は合掌で終了です。礼節に終わるなんか、そんな言葉があったように、最後は合掌で終了です。それがけじめという事にもなりますので。ちなみに、アナハタチャクラが割られたときは、合掌(手を合わせる)すれば、開いたチャクラは戻ります。自分がこわしてなければのことです。単なる私の存在という事は、自分の身、口、意の事です。

自分の心の響きによって、変わります。まあ、大乗でやっている時は、さまざまな時間や、場所が関わりますので、怒鳴られていても、ネッ。罪にはならないです。仕方ないと思います。霊性はそれぞれ違いますから、能力と同じです。だから、低い能力の人が動かしている時、できている人は耐えすぎて、頭の病気になります。認知もです。誰が上に立つによるか変わりますので、これは社会と同じです。誰が社長になるかという事です。だったら陰で言っちゃえと私は勧めます。誰も聞いてないから。それを直していくのも、クフを克服?しないと、って言っても大丈夫というゆとりでしょうか?誰も聞いてないからという。チャクラの振動か、もしくはだれの?そこからですね。座禅したほうが早いのにね。子供たちのほうが空気を感知でしょう。こればかりは気を付けないと、自分だと思ったら、さあ大変。さあね。

何を我慢するか、こればかりは、口と意識の問題です。使い方によっては、さまざまですから。後は霊性の在り方でしょうか?要は霊性の在り方を知りたいか、わからないかです。意識においても、無意識、無無意識があります。様々な世界で呼び方は違いますが、仏教では、アーラヤ識、末那識があります。それができるかどうかで、決まります。結局は、西洋文化か、仏教かという事です。密教のやり方がわかってなく、人を抜くという事が正しいとは違います。其れでは、幽体離脱と同じようなことです。テゥモの在り方です。自分で気が上がるという事に近いですが、恥ずかしい時も、そうです。顔を赤らめるという事は最近ないように思われます。が、それが、本来の心の在り方でしょう。ドキドキするという事です。ではドキドキしないから、同性愛という風に、とらえて行っても当然でしょう。何を聞くかです。意識においても、同じです。自分で挙げられてから、人にあげることができます。私の経験からいうと、ナーディ(究竟)に至るには、祖父がやはり、電気関係でしたが、お風呂の垢がすごかったです。しかし、阿闍梨の状態を見てみると、祖父とおなじです。そこから、密教の修業が始まるのではないでしょうか?祖父はなくなりましたが、そのテゥモの上げ方により密教が完成されるのだと思います。今の状態だと、何だか、大手の人にいかに似せようとしているだけで、結局は、まだ性欲状態です。でなきゃ、できるはずです。その人の側にいるとイライラするとか、誘惑、これは男性のほうがわかるはずです。ムラムラ?結局セックスですよね。ナーディで、セックス?信じられない世界ですが、同性愛と同じです。昔のそのような人をテレビなどで見ていると、母と、わかります。あれでも、生起を守れたのですね。けじめ。でも、セックスの時は、ナーディ。だから、それ以外がガサガサ、ゲジゲジ、。気も悪い。だから、

密教的に言うと、縁が切れ、自分だけとその仲間だけになります。しかし、今は幅広いので、気を付けないと何が起きているか。体(ナーディ)がつながっていると、悟りにも影響を及ぼします。本来の縁ならわかりますが、作られたもの、好き勝手に、それは、厄介です。自分以上の力が必要となります。だって自分なら経験しなくてもいいこと経験せざるを得なくなります。其れって、修行でしょうか?そして、本来の状態でどのような縁があるか、という事です。自分の精神的状態、悟りによりますが、それによっては何を感知するかです。私事ですが、母がそうでした。無意識がつながっているかどうかわかりませんが、それをガンジることです。よって、お・も・

状態です。洗濯ほしていて、どうしてだろうと子供ごころに思いました。父としかセックスしてないのにと思ったことがあります。今、思えば、なんとなく誰かと意識がつながっていたのかなと思います。だから、官能してしまったことかもしれません。結局は、禅定に至るまでは、修行東夷ことでしょう。しかし、さまざまにありますので、気を付けないと、心と体の統一です。体だけでは、(今の密教)いずれ、また、エ・ズに陥ることでしょう。さあね。今はいいかもしれませんが、それか、西洋文化です。外国みたいですね。よって、どんな環境で、どのような事をして、という事が大切です。私だってね。自然にしていても、悟りに目覚め宗教に入っていた人もいました。怖いですね。お福かな。いや、お福の卵だ。人間の思想は怖い。だから似ている人がいるという事です。

 

今日はここまでにします。また、後ほど。