今日は、久しぶりに。

とっても、お久しぶりです。というのも自分でしょうか?もしくは、その空気を読むという美徳の感情のひとつでしょうか?でも、普通は言いいませんよね。という感じで始まりました。というのも、きっと、一人で書いているのに馬鹿じゃないという感情を感じとるということでしょう。でも、これは、自分の一人の時間の楽しみです。ナノに、どうして、見えない空気で振り回されなければいけないのかわかりません。まずはそこから、変えていくことが必須です。そうすれば、かわっていきます。しかし、このページは、私の悪口用にできているのですが、その悪口もこんな感じにもどってきてしまいしました。自分が戻りつつあるのでしょうか?

 

悪口言うときは、人もしくは、批評になります。典型的な悪口となると、すでに、我慢の限界です。暴言です。しかし、これも躾ですから、仕方内と思います。よって、自分を壊すのではなく、自分を尊重してくれる人と付き合うことです。なぜ、悪口を言う人と仲良くするのかわかりません。それは、学校で会ってのことで、その悪口を言う人も、仲間はというと、気の会う友人とあっているからです。だから、心が潤っているのではないでしょうか?というより、これは、もちろん当然のことです。

 

でも、子供でも、若くして、これが普通のことかどうかなやんでいるようです。父のお葬式のときも、まだ、小学生にならない子供がいましたが、また霊性で話したりしていると、それが昔からのしつけであり、ものの見方を言っていたような気がします。

 

だから、子供心にも、そのような悩みはありますね。後は、どのように、躾ていくかということと、友達を選んでいくということ覚えさせないと、自分の人生までだめにしてしまいます。そして、将来恨みつらみなどが残り、また、その悪い流れになっていくのです。とおもいました。お金があるから出なく、それを理解する教養が必要です。

 

だから、その状態で、理解できる霊性の持ち主はやはりすごいです。というのも、母がそうでした。だから、疲れて帰ってくる友人にはもう会うのよしなさいといわれたくらいです。しかし、その人は熊本から出てきて、一人でさびしいからと、夜中の電話に時々付き合ってたくらいですが、まあ最初の出会いは、バレエのオウプンクラスで、相手がキリスト教の話をしていたので、目につきました。それからです。あまり、話に乗らないようにしないと、相手もほかの人とはなしていたので。

 

よって、さらに、精神的など、自分の生活に対して考えてというより、がむしゃらにやっていたときでも、疲れによって導かれた悪運というのでしょう。輪をかけて、引き込まれたという感じです。よって、バレエの才能はないとおもってますが、同時に、才能の開花というものは大変な徳の持ち主ではないでしょうか?徳といってもひとことですが、それには、多大なる言葉があります。それを考えられるくらいの人格でないと、才能の開花はないと思います。

人に言われるより、それも、霊性ではなく、現実で。そして、その友人や親に感謝です。出会えることにより、人生がかわっていくのですから。これって新道の教えですよね。新道はすごいです。その詳しいことは、また仏教の教えでありますので、慈悲からの考え方でしょうか?

 

結局、昔は、新道も仏教も同じだったわけです。あるとき、そのように分けたそうです。歴史ですね。高学歴でないと、そこまでの勉強はしないと思います。常識人は案外偏差値の高い人たちのようです。