密教の現実 

すべてキカイダーのように作り上げて、現実で表れている人はしんじられないとおもいます。そのような人に限って、話せばこの人にやらせればといいます。人は何を肯定するかによって決まります。ふつうはそれだけでわかる人もいれば、だまされる人もいます。それはさまざまな業だと思います。その人は何をどのようにして生きてきたかによって決まると思います。よく言ってくれればいいじゃないといいますが、果たして、そのような人に言うでしょうか?もしくは、友達でもないのに、信じられません。なぜそのような言葉がはっせられるのか、まったく理解できません。しかしそのような人に限って、人を裏切るのですよね。

 

要は自分の心の嫉妬や闘争ですね。それだけでしたらいいが、要は好き嫌いに当たることだと思います。自分は平気なのに、人の業を受けたらそうなることもあります。それには自分をよく知らなければならないと思います。密教とは、自分の意識の改革であります。自分の潜在意識(アーラヤ識)、末那識のことです。時代により、さまざまな密教の形がありますが、テゥモによって、自分の修業がありますので、今現在は?自分で自分の心をどのように見つめるのでしょうか?それもできいないのに、偉そうに、している人は、果たしてどのような宗教なのでしょうか?

 

それは、新道でも、仏教でもありません。

12縁起、四諦、知恵の勝義無

流転(

有漏)と環滅(無漏)の12縁起が勝義の次元で成立しないことを示している。

 

勝義の次元においては、これらの仏得を得るということもそのような形で成立しない。

 

外の障礙

  修行を妨げる外的要素

内の障礙

  煩悩など内的な妨げ

 

心の光明

  心の働きが完璧に自在であり、何事も瞬時に正しく理解できる状態を指してい    る。

 

    よって、

勝義の世界において、どんなに徳や修行をしても、意味はない。また、心の光明とは、その人自身はいずれブッタになることはあるが、それは、業によってであり、密教の修業をしても、今生で成就できるとは限らない。

まあ、いろいろな教えがあり、ところどころでは、このようなことをいっている風潮がありますが、それは間違っています。

 

また三身とありますが、それはバラバラに成就するのではなく、一瞬にして、法身、応身、報身が備わる、いわゆるあっという間に成就するということであります。今

現実、アーラヤ識、末那識と別々に他の人間を使って修行する、または成就に導くということは、まったくと言っておかしいことです。それは仏教ではありません。

 

そのような仏教が広まっているということがおかしいです。また、それにだまされる人もちょっともう少し仏教を知ったほうがいいと思います。仏教の知識が足りないと思います。そのような人がどうして、密教ができ、または、社会的に、はいあがれるのでしょうか?

 

もう少し考えるということをしないと、言われたから信じるということは安易ではないでしょうか?議論は嫌悪ではありません。これも一時期はやっていたことだったと思います。なぜそのように考えるのか不思議でたまりません。まるで、外国人のとらえ方と同じで、結婚は地獄だということに対して、だから私たち、外国人と結婚すれば、幸せになれるというとらえ方と同じことだと思います。

 

方便という意味がなくなります。はっきり言わないとわからない人が多いのではないでしょうか?しかし、それが、またさらに、人に恨みをかうこともあります。特に外国ではそのことによって、殺人が多いのではないでしょうか?人によって使い分けるということも必要ですが、そうしないとまた、違った問題が起こりかねません。

 

よって、それから、心の問題も発展していくのではないでしょうか?自分の心もわからなくなったら、きっとキリスト教になってしまうし、また、同情かもしくは、優しさか、また恋愛感情かその心を自分でわからなくなったら最後でしょう。きっと同性愛になると思います。

 

  • 日本には思いやりということがあります。人の優しさに感動したり、潤ったり、それが日本の宗教ではないかと思います。それが、決して、自己愛着ではないと思います。ではなぜ仏教には慈悲があるのかと思います。人はもたれもたれつつと思います。人は一人では生きてはいけません。お互いが、助け合い、生きていくことで、調和が生まれ、人間関係が生まれてくるのではないでしょうか?性格があわないのに、無理することはないと思います。それは、社会の常識として、今忘れられている礼儀を重んじれば、それで、うまくやっていけるのではないでしょうか?それ以上求めることは、仕事?プライベート?もう少しけじめをつけたほうがいいと思います。

 

ちなみに、

 

     慈とは、愛悲とは、哀れみです

 

  

こんにちは。ワサビマメ2号です。

というよりも、ワサビマメの別口ブログです。今は別のパソコンでうっているので、

2を作りました。というより、パスワードを忘れてしまい、新しく作りました。

何だか最近また昔と同じことが起こりつつあります。同じことをして、何が変えられるのかと思いますが、人は同じことをするものですね。人の心はそう簡単には変わらないということを知っていれば、どうするべきかわかると思いますが、一気に変えても、それが一気に流れ込んでも、変えることできるのでしょうか?そうしたら、少しづつ変えていったほうが、自分にも不可にならず、また自分の精神性を壊さなくてすむと思うのですが、どうして、一気にやりたがるのでしょうか?自分でかたずけているとおもっているのでしょうか?それは、周りを見ることができないからだと思います。やはり、自分が無知だからだといえるのではないでしょうか?やっているつもりでも、相手の領地に入り込んで、反対に抜け出せなくなっているのではないかと思います。それがあらわに現れるのは、自分が悪くなってからだと思います。早く気付くか、遅いかは、自分だと思います。そして、自分がイライラして、どうせわかってくれない。とかなどの愚痴になっていくのだはないでしょうか?同じことを繰り返すというのもきっと何かあるかもしれませんが、同じことを繰り返しても、自分の性格が変わらなければ、新たに気付くことはできないと思います。どんなに勉強しても、自分の受信の受け方にもよりますし、能力もあります。まあカルマみたいなものです。それよりも、とりあえずということで、先に進んだほうがいいのではないでしょうか?そうすると、また新たな方法や、道が見えてきて、それをクリアもしくは、打破できるのではないでしょうか?私も愚痴ですが、頑張ります。皆さんも気を付けてくださいね。