密教について

またまた

です。今日はまた、煩悩についてです。仏教の中で煩悩を落とす。とあります。これは、煩悩を超えると思いますが、キリスト教では、煩悩がなくなれば、こじきでも平気である。と聞いたことがあります。これは大変間違っていることです。間違った三身です。というのも、煩悩がナーディにかわったり、確実に間違っています。要は空もありますが、それそさえも体でやってしまうということです。

 

まったくと言って信じられません。人それぞれの受け取り方があるように、それが修行であり、考えることであります。それを議論を嫌悪などと言ってみたり、それこそ、生活ができなくなります。ではなぜ口があるのでしょうか?それはしゃべるためであり、お互いを理解する手段でもあります。その口があるのに、見えないところで話したりしているということは、まったくといってナンセンスです。実生活の中で、言えないことがあり、悩んだりしながら、成長していくのが人ではありませんか?

 

それを無視して、何を考えているのか。これは根本無知です。あまり、自分ということに考えたことがないのか、人生など、その他もろもろですが、楽しければいいという感じなのでしょう。だからどのように考えていいのかわからないのでしょう。でもそれではあまりにも無知すぎです。少しは教養たる本を読まないと。

 

その点昔の日本人のほうが生活の知恵があり、無駄がありません。尊敬せざるを得ません。と私は思います。よって今の日本があるのですから。感謝を忘れたら、バチがあたります。私の経験上その点、尊敬や感謝をしている人が、大方お金持ちや、高学歴のような気がします。中にはまれにいますが、そう簡単には人間ができている人に巡り合うことは難しいかなと思いました。

 

結局愚痴も大切だということです。案外身近なところで道は見つかるかも。あとは人かな。lこれは、仏教でいうと縁起や縁。だと思います。