帯状疱疹って密教より

密教では

霊性の修業の一つです。というのもこれも難しい日本語になりますが、密教の本を読むと「毒をもって毒を制す。」です。霊性で自分が言っているのに、それを抑えたり、また口で言うことを抑えられたりすると、完全な神道であれば、霊性での修行が病気になります。結局神経という言葉を使うと、その神経がおかしくなり体に異変が起こります。その時は自分の感情に従っていくことが必要です。

 

もし抑えられたりしたら、それは致し方ないですが、できるだけ、その感情をあらわにしたほうがいいとおもいます。積もると、帯状疱疹伽あらわれたりします。これは霊性でのイライラであります。自分の意識における言葉ですから、自分の言葉で、自分の感情で言っていることをつなぐことが大切です。口で、体で、意識で、との三身がありますので、それがおかしくなると、キリスト教みたいになり、いずれキリスト教になります。

 

それが自分なのですから、それを受け入れる必要があります。よって座禅、または瞑想が必要となります。なぜならば、それは自分の精神統一みたいなものです。要は、武道と同じであります。自分の心を壊すということは、必ず体に現れ、よって同性愛にもなりかねません。

 

新道であれば、仏教の言葉を使えば、正起次第といい、ナーディやテゥモを起こすことは、究竟次第といいます。これが密教の教えであります。本に書いてあるのですから、別に悪いことでもなく、よく口で話すとよくないとか言われますが、それは間違っています。なぜならば、本が出ているのですから。そして、それをどうするかは、もちろん、座禅であります。要は新道は正しいということです。

 

それが間違えるといろいろとありますが、まず最初にすべて究竟次第であれば、それは、エイズや、キリスト教であります。ナーディやテゥモだけで、生起次第を完成させることはできません。それはおかしいことです。なぜなら、相手が正しいですが、霊性でそれを理解できることは、少し病的なことであり、同性愛に近いことです。同性愛はそういう意味で霊性(先がわかる。早いということかな)でありますので、霊性が早くに高くてもそれは、一旦落ち着いて、精神統一や、瞑想、座禅をしたほうがいいと思います。これは、阿頼耶識での徳を使っているか、もしくは、間違った三身であります。これも、キリスト教になります。

 

故に、落ち着いて、生活することの大切さをしみじみに感じます。ですから、密教で自分のいやなことをして、業が悪くなるより、避けて通ったほうが、自分の業が悪くならず、自分のためにもいいと思います。あとで人をけなすより、自分で選択するべきです。そうしたら、恨むこともありません。また、本来なら、光によってではありませんが、仏の魂や菩薩の魂があります。何故かそのような人にいやなことをして、業を悪くするならば、自分の人生も悪くなります。

 

今まで、密教が流行ってなかったとき、いい人にはみなさんいいことをしていたし、私には関係ないとおもっていたはずです。それはいいことをすれば、いいことが帰ってくることであり、関係ないもエゴではないと思います。だってそれは現実ではその本人にはまだあってない人なんですから。