12縁起、四諦、知恵の勝義無
流転(
有漏)と環滅(無漏)の12縁起が勝義の次元で成立しないことを示している。
勝義の次元においては、これらの仏得を得るということもそのような形で成立しない。
外の障礙
修行を妨げる外的要素
内の障礙
煩悩など内的な妨げ
心の光明
心の働きが完璧に自在であり、何事も瞬時に正しく理解できる状態を指してい る。
よって、
勝義の世界において、どんなに徳や修行をしても、意味はない。また、心の光明とは、その人自身はいずれブッタになることはあるが、それは、業によってであり、密教の修業をしても、今生で成就できるとは限らない。
まあ、いろいろな教えがあり、ところどころでは、このようなことをいっている風潮がありますが、それは間違っています。
また三身とありますが、それはバラバラに成就するのではなく、一瞬にして、法身、応身、報身が備わる、いわゆるあっという間に成就するということであります。今
現実、アーラヤ識、末那識と別々に他の人間を使って修行する、または成就に導くということは、まったくと言っておかしいことです。それは仏教ではありません。
そのような仏教が広まっているということがおかしいです。また、それにだまされる人もちょっともう少し仏教を知ったほうがいいと思います。仏教の知識が足りないと思います。そのような人がどうして、密教ができ、または、社会的に、はいあがれるのでしょうか?
もう少し考えるということをしないと、言われたから信じるということは安易ではないでしょうか?議論は嫌悪ではありません。これも一時期はやっていたことだったと思います。なぜそのように考えるのか不思議でたまりません。まるで、外国人のとらえ方と同じで、結婚は地獄だということに対して、だから私たち、外国人と結婚すれば、幸せになれるというとらえ方と同じことだと思います。
方便という意味がなくなります。はっきり言わないとわからない人が多いのではないでしょうか?しかし、それが、またさらに、人に恨みをかうこともあります。特に外国ではそのことによって、殺人が多いのではないでしょうか?人によって使い分けるということも必要ですが、そうしないとまた、違った問題が起こりかねません。
よって、それから、心の問題も発展していくのではないでしょうか?自分の心もわからなくなったら、きっとキリスト教になってしまうし、また、同情かもしくは、優しさか、また恋愛感情かその心を自分でわからなくなったら最後でしょう。きっと同性愛になると思います。
- 日本には思いやりということがあります。人の優しさに感動したり、潤ったり、それが日本の宗教ではないかと思います。それが、決して、自己愛着ではないと思います。ではなぜ仏教には慈悲があるのかと思います。人はもたれもたれつつと思います。人は一人では生きてはいけません。お互いが、助け合い、生きていくことで、調和が生まれ、人間関係が生まれてくるのではないでしょうか?性格があわないのに、無理することはないと思います。それは、社会の常識として、今忘れられている礼儀を重んじれば、それで、うまくやっていけるのではないでしょうか?それ以上求めることは、仕事?プライベート?もう少しけじめをつけたほうがいいと思います。
ちなみに、
慈とは、愛。悲とは、哀れみです。